「スポーツビジネスの世界の小さな試み」

三ッ谷 洋子
スポーツ21エンタープライズ 代表取締役
スポーツビジネス・プロデューサー


スポーツジャーナリストとして、スポーツビジネス・コンサルタントとして、30年ほどスポーツにかかわってきました。仕事を通して「環境」をどう認識し、問題についてどう対処してきたかを、お話してみたいと思います。

1970年、私のジャーナリスト生活は新聞記者として始まりました。日本では公害防止のための法律「公害対策基本法」がすでに成立していましたが、東京では車の排気ガス(有鉛ガソリン)による大気汚染がクローズアップされ、新たな公害として注目されていた年です。

私が配属されたのは都内版という、街の話題を扱う部署でした。ある日、私が担当していた港区で清掃局がごみをすてていったという話を聞きつけ、それを記事にしました。この記事は一連の公害問題に関連し大きく取り上げられ、スクープとして社会面トップを飾りました。私自身がジャーナリストとして社会に向けるアンテナに間違いがないという、小さな自信が生まれました。しかしその後、スポーツ新聞の運動部に異動となり、それ以降は公害問題や環境問題について取材することはありませんでした。

1976年、モントリオールオリンピックの年、こんな経験をしました。大会の2か月前、カナダに行きました。建国100年余りのカナダの人々が、オリンピックをどのように受け止め、また心待ちにしているのかを取材するためです。西のバンクーバーから東のニューファンドランド島まで、2か月がかりの横断の旅でした。バンクーバーでまず驚いたのが、オリンピックに対する関心の低さです。この時、私は友人宅に泊まりました。友人や仲間たちが熱心に語っていたのは、オリンピックのことではなく「バッキー」のことでした。バッキーとはバックミンスター・フラーのことで「アメリカの著名な建築家」ということでした。彼がバンクーバーで講演をするとのことでした。 日本ならオリンピックを目前にして、日本全国オリンピック一色という時期に、若者に熱狂的に迎えられていたフラーという人物に、大きな関心を持ち、長く私の記憶にとどまりました。バックミンスター・フラー彼は人間が、地球の資源やエコロジーといった問題を先送りにして、文明が危機的状況に陥っていることに警鐘を鳴らしていました。「人類は宇宙船地球号の乗組員である」という概念を最初に提唱した人物であり、偉大な文明批評家であることを後になって知りました。当時の日本の社会といえば、驚異的な経済成長の途中にあり、世界トップの経済大国への道を歩んでいきます。

80年代は、右肩上りの高度成長の時代で、スポーツビジネスの市場は一気に拡大しました。週休2日制の浸透により、余暇を過ごす拠点としての大規模リゾート施設が注目されるようになりました。

87年にいわゆるリゾート法が成立した結果、日本列島は自然環境を大きく破壊するようなゴルフ場、スキー場、マリーナの整備計画が乱立しました。

そして、90年代に入り、バブルが崩壊し、日本社会はようやくこれまでの方向を見直す動きがでてきました。私は1980年にスポーツビジネスのコンサルティングの会社を作りました。1984年から「マーケティング研究会」というセミナーを開催しています。参加者はスポーツ団体、広告代理店、企画会社、建設会社、メーカーなどのスポーツ・健康関連部署の担当者です。テーマは私自身がその時代に学んでおきたいことであり、またスポーツ関連企業の担当者にはぜひ知ってほしい内容です。これまで280回ほどのセミナーを開催してきましたが、これまでのテーマを見てみると、スポーツビジネスにおいて「環境」がどのように認識されてきたかが、よくわかるので、ここにご紹介したいと思います。

このセミナーで初めて「環境問題」を取り上げたのは1993年です。この年は連続4回とりあげました。

1. スキューバダイビングと環境保全
 海の環境を保全するためには自然保護制度を導入し、自然保護の教育がポイントだということでした。

2. 日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT-J)の活動
 HAT-Jは、エベレストに初登頂したエドモンド・ヒラリー卿がはじめたヒマラヤの環境保全活動に触発されて設立された団体で、女性初のエベレスト登頂者田部井淳子さんが発起人となりました。エベレストだけでなく、日本の山も登山者のゴミで汚されているからです。

3. アメリカの競技場運営とごみ処理対策
 プロ野球大リーグのスタジアムのメンテナンスについて話を聞きました。施設は禁煙となっており、観客に施設を快適に利用してもらうためのメンテナンスの第一は清掃とのことでした。

4. 企業活動と環境問題
 91年からスポーツ業界として初めて環境問題に取り組んでいるミズノ株式会社の「地球環境保全活動」についてとりあげました。社内では古紙回収や省エネルギーの徹底、メーカーとして「商品パッケージの見直し」「物流・生産工程の改善」「環境保全を考慮した商品開発」をしているとのことで、当時の企業としてはかなり環境意識が高く、先進的な取り組みに企業の真剣な姿勢を感じました。

翌1994年、初めての「環境オリンピック」として注目されたリレハンメルオリンピックが開催され、「環境オリンピックの実態と長野オリンピックへの課題」というテーマを取り上げました。

1996年は、2002年サッカー・ワールドカップの日本・韓国共催が決定した年です。これを機に、日本各地のスタジアム建設に拍車がかかりました。地域の大型スポーツ施設は、住民のスポーツ環境のカギを握っています。そこで、「スタジアムと都市」をテーマに、スポーツ先進国である欧米の都市空間におけるスタジアムについてとりあげました。スポーツ施設は都市においては「迷惑施設」となりがちです。どこに建設するかも大きな問題ですが、大会の時の交通渋滞、違法駐車、騒音、ごみなどが問題になります。これらの点については、施設計画の段階で十分、配慮すべきなのですが、日本ではそこまで事前に意識して計画している施設は私の知る限りありません。

昨年は、スポーツ界の新しい動きに遭遇しました。スポーツ用品のリサイクル活動を通して環境問題に取り組んでいるNPO法人グローバル・スポーツ・アライアンス(GSA)という団体について取りあげました。活動の中心になっているのが、スポーツに直接かかわっていないビジネスマンやアーティスト、学者などで、それまでの日本スポーツ界にはなかった新しい流れが生まれていることに、新鮮な感動を覚えました。GSAは日本だけでなく、国連環境計画と共に「ドリーム・キャンプ」を開催して世界の子供たちへの環境教育などにも取り組んでいます。

こうしてこれまでの30年間を振り返ってみると、以前は全く意識をしていなかった個別の経験が「環境」というキーワードで今日につながっていることに、不思議な感慨を持ちます。

私は、延べ10年間ほどJOCの委員を務めました。この経験からIOCの理念には、心から賛同しています。中でも心に留めているのがオリンピック憲章です。いま、オリンピック憲章を私の経験をふまえて自分なりに言い変えるとすれば、次のようになります。

「オリンピックにかかわる者すべてが、『宇宙船地球号の乗組員』としての自覚を持ち、オリンピックのモットーである『より速く、より高く、より強く』を求め続けるべきである」

私自身としては、「文化や教育とスポーツを一体にするオリンピズム」が求めている「よい手本となる教育的価値、普遍的、基本的、倫理的諸原則の尊重などをもとにした生き方の創造」を大切にしたいと考えています。

また、第3回IOCスポーツと環境世界会議で採択された「スポーツと持続可能な開発におけるリオの声明」の主眼点としてあげられている「環境保全における認識の高揚、教育そして研修を実施すること」を念頭に、これからもスポーツビジネスの場で、私なりの小さな試みとして環境問題に取り組んでいきたいと思っています。


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