● 三ッ谷洋子のコラム 2003年




2003年12月27日 野球の未来
2003年11月25日 「ぴあ」と「スポーツ21」
2003年10月23日 バレーボールとJリーグ
2003年9月25日 女子柔道 2つの話題
2003年9月2日 少年女子
2003年8月11日 キング・カズ
 
★ 2004年コラム
★ 2005年コラム


野球の未来

スポーツ21の看板事業の1つが、このホームページでも紹介している
「マーケティング研究会」です。1984年にスタートし、
今年で20年目になりました。

参加者はスポーツビジネスに関心のある企業や団体の人たちです。
毎月、第1水曜日のお昼に「実戦ゼミ」、奇数月の夜に「例会」を開催しています。
今年、最後となった第164回例会では、プロ野球をテーマに取り上げました。

プロ野球といえば、口を開くたびに物議をかもして
ファンの気持ちを逆撫でする新聞社社長の存在と、それを許している体制に、
私は大きな不満を持っています。

しかし、一方では日本の野球の将来に、明るい兆しも出てきています。
今回、注目した日本プロ野球OBクラブの存在です。

同クラブは1994年、川上哲治氏を会長に設立され、
現在は正式には社団法人全国野球振興会として、
大沢啓二理事長のもと、選手、監督、審判など1,700人が登録しています。

野球の普及・振興を目的として活動しており、
往年の野球ファンに喜ばれている事業が「マスターズリーグ」です。
今シーズンは10月末から来年1月25日まで、
札幌、東京、大阪などを転戦します。

例会当日の東京ドームでは、札幌アンビシャス(古葉竹識監督)と
福岡ドンタクズ(稲尾和久監督)の試合があり、
日本ハムの試合を上回る2万人以上のファンが試合を楽しみました。

この他、中核事業としてあげられる「こどもの日 全国少年野球教室」。
47都道府県で同時に行われます。今年は13,312人が参加、
353人のプロ野球OBが指導に当たりました。

選手として指導を受けるのは小中学生ですが、
彼らを指導する指導者や審判に対しても講習会が行われます。

これまで計9回の教室に参加した子ども達は延べ10万7千人。
これは小中学生の野球人口の3%に当たります。
地道な普及活動に、野球の未来を見た思いがしました。

「ぴあ」と「スポーツ21」

10月末に、チケットぴあ創業30周年のレセプションが、
日比谷の東京會舘で開催されました。
矢内廣社長とは10年来の知己でもあり、
枯れ木(?)も山の賑わいになるかな~と、
顔を出してみました。

ちょうど、矢内さんの挨拶が始まったところで、
場内は立錐の余地がないほどの招待客で超満員。
東証一部に上場したばかりの会社は、
さすが注目度も高いと感心しました。

矢内さんが雑誌ぴあを創刊したのは、大学在学中のことでした。
「社会に出る前に海外旅行をして見聞を広めたら」と、
お父様が長男のために準備された旅行費用を、
創刊号の印刷代に充てたとのこと。

映画・演劇・コンサートの情報が一元化されていなかった当時、
ぴあは画期的な雑誌でした。
新たな雑誌の発行に取り組んだ矢内さんの情熱と真摯な姿勢は、
瀬島龍三、稲盛和夫、出井伸之といった経済界の重鎮を引きつけ、
強力なサポーター・グループとなっています。

ぴあはその後、「チケットぴあ」をスタートさせ、
長野オリンピックではオフィシャルチケットマネジメント会社となりました。
この世界への橋渡し役を務めたのが、スポーツ21です。

私が矢内さんと初めてお会いしたのは、
小社が旧通産省から委託されて事務局を置いていた
「スポーツビジネス研究会」の委員会の席でした。

委員長は鬼塚喜八郎アシックス会長、私が座長となり会議を仕切りました。
内容、開幕したばかりで人気沸騰中だったJリーグを成功事例として、
インドアスポーツであるバレーボール、バスケットボール、
アイスホッケーについて、プロ化モデルを検討するものでした。

矢内さんはこの委員会で、スポーツイベントでの
コンピューターによるチケッティングシステムや、
市場としての大きな可能性について力説されました。

そんなある日、矢内さんが6人の部下と共に来社されました。
スポーツビジネスの現状についての私の話に、
熱心に耳を傾けられました。

その後、同社は「スポーツ21 マーケティング研究会」の会員となり、
また、私は1年間、同社のコンサルタントとして、
スポーツ業界・スポーツ界について多くの情報を提供し、
様々なアドバイスをしました。

1998年、フランスで開催されたサッカーのワールドカップでのこと。
私がJリーグ理事として参加したJリーグ役員の応援ツアーに、
矢内さんもオブザーバーの立場で参加されました。

今でも強く印象に残っているのは、いつもパソコンを入れた
オレンジ色のケースを背負っていた矢内さんの姿です。
海外出張で初めてパソコン通信をするとのことでした。

朝食で顔を合わせると疲れた様子で、「とにかく接続が大変なんですよ」と、
ご苦労の様子が見えたこともありました。

実務経験の全くなかった大学生の矢内さんがいかにして起業し、
また30年間、社長としてどのように会社を引っ張ってこられたのか。
その一端を知るにつけ、いかに経営者の姿勢が重要かを痛感します。

バレーボールとJリーグ

30年前、人気のスポーツといえば男子バレーボールでした。
全日本男子チームは絶大な人気を誇り、練習にも大勢のファンが詰めかけ、
選手たちはまさにアイドルでした。

1972年のミュンヘン・オリンピックで金メダルを取り、
人気も実力も頂点に達しましたが、その後は下り坂。
金メダルの威光はすっかり色あせています。

そんな日本のバレーを何とか復活させようと、
Vリーグが中心になってさまざまな活性化策が練られていますが、
なかなか明るさが見えてこない状況です。

国際大会で負けた責任を取って、
森田強化委員長が退任するのしないのと、
協会人事にもごたごたした印象があります。

「そんなことしている場合じゃない。
バレーしっかりしろ、といってくれませんか」
先日、Vリーグ実行委員長の岡野昌弘さんから
運営委員会で講演をしてほしいと、頼まれました。

30年前、私は新聞社のバレー担当記者として
男子バレーの全盛期を取材していました。
岡野さんは日本リーグ強豪の1つ、富士フイルムの選手でした。
「地味だけれど、巧みで味のあるプレーをするセッター」として、
私の印象に残っています。

その後、新設されたサントリー・男子バレー部に移籍し
チーム引っ張り日本一に育てて、
現在は日本バレーボール協会の常務理事として
「日本バレーの復活」に取り組んでいます。

今やすっかりバレーから縁遠くなっている私が
バレーの現状に苦言を呈することなど無理です。
そこで、Vリーグが導入する「ホーム&アウェー方式」にからめて、
「Jリーグのホームタウン方式」について話しました。

Jリーグの成功にはいくつかの要因がありますが、
最も大きな要因は、ホームタウン制の導入です。
クラブは地域に密着し、地元の企業や住民、自治体と一緒になって活動し、
地域のスポーツ文化を高めていこうという考え方です。

当該チームの拠点地域で試合をするだけではなく、
日ごろから地域に密着した活動をしなければ、
地域の人は「おらがチーム」とは思ってくれないということです。

具体的な話として、鹿島アントラーズを事例として取り上げました。
いまやアントラーズのホームタウンとして有名な鹿島。
(開幕時は鹿島町、現在は鹿嶋市)

住友金属の「企業城下町」だった鹿島町は、
かつて映画館も見当たらない楽しみの無い町で、
若者は都会へ出てしまい、過疎化が進んでいました。

そこで鹿島町は隣接する神栖町、波崎町が住金と共に
「楽しい街づくり懇談会」を設立しました。 
ちょうどそんな時、サッカーのプロ化の話が飛びこんできたことが、
アントラーズ設立のきっかけでした。

茨城県はアントラーズのホームスタジアムとして
日本初のサッカー専用競技場を建設し、
当時、日本リーグ2部だった住金サッカー部を強化するために
ブラジルからジーコを招聘しました。

地域住民は老いも若きも大会運営のボランティアや、サポーターに。
そしてチームはJリーグの初代チャンピオンになりました。

「魅力の無い町・鹿島」から「アントラーズの町・鹿島」になり、
90%の住民が「郷土への誇りを持てるようになった」と胸を張っています。

Vリーグのチームも、やはりJリーグのクラブのように
チームゆかりの地域の人々に愛されるようになることが
大切ではないでしょうか。

「そうですか、町おこし、村おこしという面から
ホームタウン制が考えられてたとは、知りませんでした。
たいへん参考になりました」

Vリーグの飯島英胤会長にこんな感想をいただきました。
バレーの世界での講演は、何とか合格点を取れたようです。

女子柔道 2つの話題

9月11日から14日まで、大阪で世界柔道選手権が開催されました。
皆さんは「ヤワラちゃん(田村亮子選手) 6連覇」が
記憶に残っていることでしょう。

この大会に関連して、私には2つの嬉しいことがありました。
1つ目は、世界選手権で初の日本女性審判が登場したこと。
私が代表をしているWSFジャパン(女性スポーツ財団日本支部)の
会員でもある島谷順子さん(54歳)がその人です。

新聞でも紹介されていたので、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。
彼女はアジア選手権で優勝するなど選手として活躍した後、
指導に当たるかたわら、96年には国際審判の資格を取得しました。

しかし、日本の柔道界は何年も彼女を審判として起用することはなく、
私は彼女から事あるごとに、日本柔道界の"男性社会ぶり"を聞かされていました。
今回ようやく、彼女の実力に見合ったポジションが用意されたのです。

新聞には「初めての大役で緊張している」という彼女のコメントが
載っていました。島谷さんは審判という世界で確実に足跡を残し、
後進の女性たちに道を拓きました。

2つ目は、女子柔道初の国際シンポジウムの開催。
大会前日、日本女子柔道倶楽部の主管で行われた
「女性のための世界柔道シンポジウム」です。

日本女子柔道倶楽部は、元トップ選手が中心になって3年前に設立され、
島谷さんを会長に、山口香さんや田辺陽子さんなどが会員になっている組織です。
各地で子どもたちを対象にした「キッズじゅうどう」等を、開催しています。

この国際シンポジウムが素晴らしいと思うのは、
「国際シンポジウムなんて、見たことも聞いたことも無い」という女性が
懸命に努力し、実現させたからです。

シンポジウムの5日ほど前、運営についてアドバイスして欲しいと、
事務局を担当している永田千恵さんが、
WSFジャパン事務局を訪ねてきました。

私と高橋さん(WSFジャパン事務局長)は、
シンポジウム進行のポイントや、案内表示、看板の位置、
受付や椅子の配置、お客様やマスコミ対応、資料配布の要領など、
思いつく全てのことについて詳細に説明し、留意点を伝えました。

そしてシンポジウム翌日。永田さんから電話がありました。
「200人の参加者が来てくれて、大成功でした!」
各パネリストのスピーチも、たいへん良かったそうです。

数日前に「平日夕方のシンポジウムなんて、来てくれるでしょうか」と、
不安な様子で大阪に向かった永田さんの後ろ姿を、ふと思い出しました。

米国、英国、スペイン、ニュージーランド等からのパネリストを揃え、
未知の仕事に真摯に取り組み、
会議を成功させた事務局の永田さんに、拍手!

少年女子

「少年女子? 少女の間違いじゃないの?」
いくら何でも「少女」のことを「少年女子」と呼ぶのは、日本語として
おかしいと思いませんか。

私が「少年女子という呼び名を変更したら」と発言したのは、
6年前に日本体育協会の国体委員になった最初の会議の場でした。
しかし、国体に長くかかわっている人には、全く違和感がないようです。
というのも、年齢区分には「成年」と「少年」があり、それぞれ
「男子」「女子」に分けられているからです。

「成年男子」「成年女子」はいいとして、「少年男子」「少年女子」は
私としてはどうしても納得できないのです。「少年」「少女」では
いけなのでしょうか。「ジュニア男子」「ジュニア女子」でも
良いかもしれません。

開催県が総合優勝して終わる国体は魅力を失い、
「あんなもの止めてしまえば」と言う人も珍しくありません。
(昨年開催の高知県はその前例を覆し、好感を持って迎えられました。)
とはいえ、ジュニア層の育成には国体が大きな役割を果たしてきた実績を思えば、
改革していくことこそ現実的でしょう。

今年3月、日本体育協会は「国体改革2003」を策定して、
大会の充実・活性化と運営の簡素・効率化について詳細な改革を打ち出しています。
私はこの改革案策定プロジェクトに委員として2年間かかわりましたが、
残念ながら「少年女子」の名称については手つかずでした。

それでも6年前に比べると、国体を巡る環境は確実に変わってきています。
たとえば、当時の帖佐寛章委員長が「委員はおじいさんばかりです」といわれた
委員の顔ぶれは大幅に若くなり、今では私より年下の委員がいるほどです。
「先輩方にお引取り願うのは、大変なんですよ」
日比野弘・現委員長のコメントです。

キング・カズ

8月9日に札幌ドームで開催された「2003 JOMOオールスターサッカー」を
観戦してきました。この日は台風の襲来で航空便の欠航が危ぶまれましたが、
北海道はまだ危険区域に入っていなかったようで、1時間遅れの到着ながら、
どうにかキックオフの2時間前に会場に着くことができました。

開会のセレモニーは、ドームならではの丸い天井を使っての演出。
場内の照明を暗くして、夜空をイメージしたもので、
星が投影され会場はまるでプラネタリウムのようでした。
試合の結果はすでに皆さんもごご存知のように、
J-EASTが3-1でJ-WESTに勝ちました。

ただの「お祭り」ではあるのですが、私が一番嬉しかったのは
カズがゴールをしたことです。WEST唯一の貴重な1点という価値も
さることながら、「まだ頑張っている36歳のカズが、
見事なボールさばきを見せて得点までした」のです。
さすがにキング・カズと呼ばれた選手の力量に、改めて感動しました。

サッカー選手の寿命は長くはありません。
彼は一体、どんなセカンドキャリアを思い描いているのでしょうか。
カズがゴールをした後、私の脳裏には彼が真っ赤なタキシードを着て、
「Jリーグ・アウォーズ」の最優秀選手として舞台に颯爽と登場してきたシーンが
浮かびました。1993年、Jリーグが誕生した年のことでした。

Jリーグの理事といっても、私が選手たちと親しく話をする機会は
ほとんどないので、カズの人となりについてはよく知りません。
しかし、彼のマスコミでのコメントにはいつも感心しています。

プロとしての強い自覚と前向きの姿勢が、彼自身の言葉から
強く伝わってくるからです。これからも、私は彼の生き方を
遠くから見守っていきたいと思った一夜でした。






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