● 三ッ谷洋子のコラム 2004年




2004年12月31日 スポーツで食べていく
2004年11月30日 懲りない埼玉
2004年10月20日 「スポーツ界の黒幕」の進退
2004年8月31日 アテネオリンピックで見たスポーツマン像
2004年7月30日 10年前の感動
2004年6月30日 スポーツとまちづくり
2004年5月31日 アイドルはバレーの救世主
2004年4月28日 Jリーグ理事の仕事
2004年3月28日 宮里藍は前園に?
2004年2月19日 極秘の情報
 
★ 2005年コラム
★ 2003年コラム



スポーツで食べていく

2005年は社会に出て35年目、会社を設立して25年目を迎えます。
私は新聞記者として仕事をスタートし、
フリーランスのスポーツジャーナリストとなり、
現在はスポーツビジネスのコンサルティングを業務とする
「スポーツ21」を経営しています。

新聞社を退社した後も私がスポーツに拘ったのは、
ほとんどライバルがいない分野だったからです。
当時、「スポーツライター」はいませんでした。

新聞社を辞めて執筆業をしていても、肩書きは皆「フリーライター」。
スポーツのテーマだけでは食べられなかったからです。
スポーツ総合誌ナンバーも出ていない頃のことです。

当時もスポーツ雑誌は出版されていました。
しかし、記事は新聞社の記者がアルバイトで書くのが一般的で、
原稿料もそれ相応のアルバイト料金でした。

これでは食べていけません。
私はペンだけで何とか食べていくために
「人がやらないこと」を目指しました。

当時、ソ連、東ドイツといった社会主義国が健在でした。
折りしも1980年のモスクワオリンピック前ということで、
オリンピックのたびに大量のメダリストを輩出する
社会主義国のスポーツ制度に注目しました。

それらの国にとって、スポーツは社会主義の宣伝手段です。
トップ選手は国の広告塔。
今の選手がスポンサー企業にとっての広告塔ですから、
それの国家版と考えれば分かりやすいでしょう。

ソ連と東ドイツにはモスクワオリンピックを含めて5~6回、行きました。
そして、私は社会主義国のスポーツについて
日本で最も詳しいジャーナリストになりました。

しかし、モスクワオリンピックでは、日本はアメリカに同調して
参加を見送ったこともあり、
社会主義国のスポーツという話題へのニーズは、
そう長くは続きませんでした。

仕事のテーマをスポーツビジネスに絞り込んだのは
こんな経験があったからです。
「スポーツと企業のかかわりは、21世紀には一層、緊密になるはずだ」
これが私の考えでした。

キーワードは「21世紀のスポーツビジネス」。
会社を作った25年前、21世紀は遠い先のことであり、
「スポーツビジネス」という言葉は日本では使われていませんでした。

会社として目指したのは、
スポーツ界とスポーツに関心を持つ企業の橋渡しをする役割です。
他の誰もがやっていないことでした。

近年、スポーツマーケティングや
スポーツマネジメントを専業とする企業が次々と誕生しています。
昨年は、早稲田大学にスポーツビジネス学科ができました。

「スポーツビジネス」という言葉が一般に定着した今、
「スポーツでどのように食べていくのか」は、
相変わらず私にとって大きな課題です。



懲りない埼玉

日本最大のサッカー専用スタジアムは、
63,700人収容の「埼玉スタジアム2002」。
東京の国立競技用より一回り大きい施設です。

2年前のワールドカップの時は、
日本の緒戦となったベルギー戦ほか4試合が行われました。
最寄駅は徒歩で15分ほどの埼玉高速鉄道の浦和美園駅で、
東京都心からの地下鉄南北線に接続しています。

私も埼玉の試合ではこれを使いますが、試合当日は大変な混雑ぶりです。
この埼玉高速鉄道は目下、大赤字だそうです。
浦和美園駅の周りは店もなく、試合日を除けば閑古鳥。
採算を取るのが難しそうだということは、素人でも想像がつきます。

先日テレビで、経営再建にまつわる話題が取り上げられていました。
番組では製作スタッフが「一体、赤字の責任は誰が取るのか」と、
関係者を手当たり次第に聞き回るのですが、
「計画当時の責任者はいない」「私は後からきた」等という返事ばかりで、
責任ある回答はどこからも得られません。

結局、行政システムの欠陥だけが浮き彫りになる結論でした。
埼玉県には大型スポーツ施設として前述の「埼玉スタジアム2002」と、
「さいたまスーパーアリーナ」があります。

バブルの時代に計画された豪華施設で、「アリーナ」というよりは
「スタジアム」を屋根で覆った巨大屋内施設。
スタジアムサイズで、サッカーもアメフトもできます。
しかも、壁を内側に70メートル移動させるという特殊装置付きです。

最大37,000人、最小6,000人のイベント対応ができます。
バレーボールやバスケットボールなどにも最適サイズにするために
このような設計になりました。

この2つの巨大スポーツ施設の建設費を合わせると、何と1千億円。
建設費の高さで物議を醸した新宿の都庁舎も、1千億円でした。
「スーパーアリーナ」では、平成15年度からの3ヵ年計画で
県の委託料を貰わないで済むような経営方針を打ち出しています。

しかし、「スポーツ大国・アメリカ」の施設運営を見ても明らかなように、
巨大スポーツ施設を黒字運営にすることは、至難の業なのです。
私は「赤字施設を壊して、駐車場にして収益を上げろ」などという
文化不毛の意見に組するつもりは全くありません。

しかし最近、埼玉県が「第2東京タワー」の誘致を
熱心に推進しているということを知り、疑問を持ちました。
「パリにはエッフェル塔、東京には東京タワー」ならば埼玉にも。
これが上田知事の考えだそうです。

知事が代替わりしても、相変わらずのハコモノ行政が続いているようです。
東京にも無いような大型サッカー専用スタジアムと巨大アリーナを持つ埼玉県。
これでも、まだ足りないのでしょうか。




「スポーツ界の黒幕」の進退

この前まではプロ野球1リーグ制の推進で、
現在は西武鉄道の経営の不透明さで注目されている堤義明氏。
彼が「スポーツ界の黒幕」であることは周知の事実です。

あまり"暴露記事"的な言葉は使いたくないのですが、
いわゆるアマチュアスポーツ界と呼ばれる世界で、
堤さんの存在はまさに「黒幕」。
影響力の大きさからずっと注目してきました。

「黒幕」でも結構なのですが、問題は堤さんが自らの事業拡大のために
スポーツを最大限に利用し、スポーツの健全な発展を阻害してきたことです。
15年前、私は雑誌「財界」で6ページにわたって
彼の姿勢を糾弾する記事を書きました。

「日本のアマ・スポーツを制覇する堤義明の野望」というタイトルです。
(編集部がつけたこのタイトルは、三流週刊誌のようで好きではないのですが・・・。)

この記事を書くにあたり直接、話を聞こうとインタビューを申し入れたのですが
断られ、私は過去の新聞記事や関連書籍に目を通し、
堤さんの関連企業で仕事をした人たちに取材しました。

そこで得た堤さんのイメージは「スポーツに何の愛情も持っていない
19世紀の資本家のような事業家」というものでした。
もともとスポーツ団体とは接点がなかった堤さんですが、
昭和45年、日本スケート連盟の「副会長」というスポーツ界の肩書きを、
初めて手に入れました。

当時の日本スケート連盟の会長は竹田恒徳氏です。
竹田さんは昭和天皇の従兄弟で、海外では「プリンス・タケダ」と呼ばれ、
IOC(国際オリンピック委員会)委員なども歴任し、
内外のスポーツ界に多大な貢献をした方です。

現在のJOC(日本オリンピック委員会)会長である竹田恒和氏は
ご子息です。高輪プリンスホテルは竹田家の土地に建っており、
プリンスホテルは堤さんのグループ企業の1つです。

私がここで指摘したいのは、ビジネスがらみの人脈でスポーツ界に
乗り込んできたという手法ではなく、
自らのビジネスのためにスポーツを私物化してきたことです。

たとえば、長野の冬季五輪招致にかかわる疑惑は、まだ解明されていません。
「五輪招致で儲かったのは堤さんの会社だけ」という"噂"は
説得力があります。

4年前、JOCの理事会で疑惑を取り上げた理事は、解任されてしまいました。
私は当時、JOCの事業部会の委員でした。
会議で「JOCはこの疑惑についてきちんと説明すべきだ」と発言したところ、
翌年の委員改選でクビになりました。

スポーツに愛情の片鱗も示したことの無い事業家に、
いつまでもすがりつく日本のスポーツ界の人を見ると情けなくなります。
プロ野球と同様、会議にはほとんど出席しないにもかかわらず
JOCの人事については大きな影響力を発揮してきました。

現在のJOCの肩書きは、文字どうりの名誉職であるべき「名誉会長」。
これをいつ、どのように返上するのか、シッカリ見届けたいと思っています。



アテネオリンピックで見たスポーツマン像

オリンピックが終わって、テレビが面白くないですね。
私は「Jリーグ役員アテネオリンピック視察」に参加して、
8月10日から10日間、ギリシャに行ってきました。

「うわ~、うらやましい~。開会式はアトランタやシドニーに
比べて断然よかったよね。それに柔道の柔チャンも水泳の北島も
凄かった。体操も復活したし、女子レスリングに女子マラソン・・・」
だれもが、今回の日本選手の活躍を自分の身内の手柄のように喜んで
会話が弾みます。

Jリーグの理事として参加したツアーの滞在地は、
アテネから飛行機で1時間弱のテッサロニキという
エーゲ海に面した美しい町でした。

ギリシャ第2の都市とはいうものの、300ページの旅行ガイドでも
たったの4ページという扱いで日本人には馴染みがなく、
試合の日以外は日本人観光客にほとんど会いませんでした。

直接、会場に足を運んで応援したのは、
サッカーの男子3試合、女子2試合。
そのうち3試合の会場は、
テッサロニキから215キロも離れたヴォロスという町でした。

試合開始は早いときで夕方6時、遅い試合では8時半です。
バスで往復すると6時間以上かかり、ホテルにもどるのは夜中という
こともありました。

テッサロニキでのオリンピックの試合はサッカーだけ。
ほかの競技は部屋のテレビを見るしかありません。
英語で放送しているユーロチャンネルのニュースで、
「水泳・北島金メダル」のシーンを少しだけ見られた程度です。

日本のテレビではないので優勝後のインタビューもなく、
「チョー気持ちいい~」などという若者らしいコメントを発したことは
帰国してから知りました。

サッカーの男女の結果は皆さんご存知の通りで
男子は予選敗退、女子はベスト8でした。
世界のレベルの高さを痛感させられたわけですが、
アジア予選の劇的な試合ぶりが、実力以上の期待を
抱かせてしまったかも知れません。

「視察報告」が長くなってしまいました。
今、オリンピックを振り返ってみて、
最も印象深い出来事を1つ挙げるとすると何かを、
ここ数日ずっと考えていました。

その結論は「ハンマー投げの室伏選手」。
金メダリストのアヌシュ選手がドーピングでひっかかり、
銀の室伏選手が繰り上げで優勝となりました。

IOC(国際オリンピック委員会)からこの結果を聞いた後の記者会見で、
室伏選手は記者たちに1枚の紙を配りました。
古代ギリシャの詩人、ピンダロスの詩を日本語に翻訳したもので、
銀メダルの裏に書かれていたそうです。

真実は神が知っているという内容の詩でした。
新聞に掲載された写真には、室伏選手直筆の詩の翻訳が載っていました。
力強く整った文字は、精神力の強さと真実を求める真摯な姿勢が感じられ、
私の目はその詩に吸い付けられ、何度も文字の上を行き来しました。

現役のトップ選手で、古代ギリシャの詩を持ち出した選手は、
恐らく外国選手を含めて、室伏選手だけではないでしょうか。

現代スポーツの恥部であるドーピングという問題を通して、
室伏選手に気高いスポーツマン像を見出すことができたことは、
私にとってアテネオリンピックの大きな収穫でした。



10年前の感動

1994年7月。
私はサッカー・ワールドカップ観戦のため、アメリカに滞在していました。
Jリーグが、爆発的な人気を呼んでスタートしたのは、この前年のことです。

日本サッカー協会が2002年のワールドカップ招致を決め、
Jリーグは、日本代表選手を輩出する各クラブにもワールドカップを
理解してもらおうと、役員ツアーを実施しました。

私は理事として川淵チェアマン(当時)や各クラブの社長とともに、
準々決勝から決勝までを観戦し、
初めて「オリンピックより凄いワールドカップ」を体験しました。

スタジアムでは、サポーターとは少し様子の違う、
いくつかの日本人の団体に会いました。
その多くは、2002年の大会会場地として立候補している
自治体関係者や地元の議員だということでした。

大会を通して、何百人もの関係者が訪れたことが想像されました。
日本の役所というところは、担当者がその持ち場を
2年ほどで異動するのが通例となっています。

8年先の大会時に、この中の何人が残っているのだろうか。
あの人たちは、本当に日本のサッカーの発展を考えているのだろうか。
Jリーグ人気の尻馬に乗って、公費で楽しみに来ているだけではないのだろうか。
私は、そんな疑惑の混じった冷たい目でその人たちを見ていました。

決勝は、9万人の観客で埋まった満員のローズボウル・スタジアム。
ブラジル対イタリアの決勝で、世界一の大会の素晴らしさに感動していたのは、
そんな日本人ばかりではありませんでした。

神社の宮司であり、学校法人の経営者でもある池田弘さんは、
日本でもスタジアムを満員にしてこんな雰囲気が作れれば、
多くの人がサッカーを見に来てくれるだろうと、確信しました。

それから2年後、アルビレックス新潟が設立され、
池田さんは社長になりました。
今シーズン、チームはJ2からJ1に昇格しました。

ファーストステージの成績は振るいませんでしたが、
J2だった昨年と同様、ホームでは毎回4万人の観客を集め、
Jリーグ最高の数字を誇る「モデルクラブ」となっています。

プロスポーツ不毛の地とも呼ばれていた新潟で、子供たちからお年寄りまで
熱狂的な人気を集めているアルビレックス新潟。
10年前のアメリカでの1人の感動体験が、
今、新潟で何十万もの人々の感動につながり、心を捉えています。



スポーツとまちづくり

このサイトを見ていただいた方にはお分かりかと思いますが、
私は、「スポーツ施設はまちづくりの視点から考えるべきだ」と
言いつづけてきました。

人間の日々の生活や行動は、本能や習慣に大きく左右されています。
たまたま空いている土地に施設を造っても、そこが地域の人たちにとって
日常生活圏の中になければ、なかなか足が向かないものです。

これまでの日本の公共スポーツ施設を見ると、
場所の選定については、それほど神経を使っているとは思えません。
施設計画で一番大切なのは「どこに造るか」です。

ところが地方自治体が建設するケースで首長が最も関心を示すのは、
施設の規模なのです。
2002年のサッカー・ワールドカップの決勝会場となった
横浜国際総合競技場は7万人収容。

1千万都市・東京のど真ん中にある国立競技場より大きいのです。
「では、ウチは10万人スタジアムだ」といっていたのが、かつての川崎市長。
隣の横浜市には負けたくないという意地が、この「10万人」に現れています。

場所は羽田空港の隣に位置する扇島でした。
東京湾横断道路のインターチェンジのところになるのですが、
「こんな場所に10万人ものサッカーファンが集まるのか?」

誰が考えても、無茶なアイディアでした。
結局、スタジアム建設計画は見送られましたが、
これは川崎市民にとっては幸いなことだったと思います。

スポーツ振興に役立てようと思うなら、その地域の身の丈にあった規模で
日常生活圏に建設することが大切なのです。
そして「仏」(ハード)の価値を高めるには、
「魂」(ソフト)を忘れずに入れることです。



アイドルはバレーの救世主

バレーボールのオリンピック予選、見ましたか?
出場権を獲得した女子の頑張りはすごかったですね。
チームを引っ張るキャプテン吉原の凛々しい表情は、とてもチャーミングでした。

男子は残念ながら、またもや五輪切符を手に入れることはできませんでした。
とはいえテレビ視聴率は男子でも平均17%で、
大会の裏番組となったプロ野球巨人戦の14%を上回る数字です。

人気を呼んだ理由の1つは、ジャニーズ事務所の
若手アイドルグループ・NEWSが「スペシャル・サポーター」に
起用されたことのようです。

10年ほど前、バレーボール人気はドン底の状態にありました。
視聴率を何とか上げようと工夫した結果が、アイドルグループの起用でした。

1991年、ワールドカップを独占放映しているフジテレビが
初めてジャニーズ事務所のV6を使って大会を盛り上げました。
その後、オリンピックなどの国際大会の中継に、
何も分かっていないようなタレントがぞろぞろと出てくるようになりました。

「何でスポーツ番組に、タレントやアイドルが出てくるの?」と
文句の1つもいいたくなる人は、少なくないでしょう。
「でも、好きかどうかは別にして、タレント起用がバレー人気の
起爆剤になったんですよ」と説明するのは、
ミュンヘン五輪の男子バレー監督だった松平康隆さん
(現日本バレーボール協会名誉会長)です。

5月のマーケティング研究会第167回例会は、
「アイドル起用のテレビ番組は、スポーツ振興に役立っているのか」のテーマで
松平さんを講師に招きました。

バレー人気が落ち込み、競技人口も減少していたバレーを救ったのが、
テレビ局のアイドル起用路線。
とにかく、より多くの人に見てもらうことが重要だとのこと。

「アイドルを見るついでにバレー、というのでもでもいい。
その中からファンが1人でも2人でも育ってくれれば」という考えです。

研究会の後、私は会員と一緒に久しぶりに生の試合を見ました。
今回の五輪予選はチケットの売れ行きもよく、会場の外にはダフ屋が出ています。
そして観客席を埋めていたのは、アイドル目当ての女の子ばかり。
まるで女子校に紛れ込んだような感じです。

私の右隣の席は女子高生の2人連れでした。
1つの双眼鏡をやり取りしながら「あっ、NWESがいる!」
「キャー、加藤選手だ!」とはしゃぎっ放しです。

応援グッズの使い方を聞いたりして、この2人と打ち解けたのですが、
第2セットが終わって私が席を立つと、
「えーっ、試合はこれからですよ。もう、帰っちゃうんですか」と、驚きの表情。

観戦していたのは、男子の日本対イラン戦。日本が2セットを先行されていました。
私としては「サッカーなら分かるけれど、なぜバレーでこんなスコアなの?」という
不甲斐ない気持ちでした。

しかし、それ以上に私を席から追い立てたのは、
スポーツ観戦にそぐわないティーンエージャーの女の子の異常な熱気と、
ロックコンサートばりの耳をつんざく大音量の音楽でした。

ミュンヘンの金メダリストを育てた松平さんは、
実感を込めて「期待される実感が、選手を育てるんですよ」といっていました。

途中で会場に空席を作ってしまったオバサンより、
どんなやり方にしても、最後まで観客席で歓声を上げていた女子高生のほうが、
選手を鼓舞していたことは確かです。



Jリーグ理事の仕事

「ジーコ、どうなの?」サッカー日本代表の苦戦が続くと、
こんな質問をしてくる友人・知人がどっと増えます。

「やっぱり監督実績のないジーコでは無理じゃない?
他の監督にしたらどうなの」と、言いたいようです。
私の答えはいつも同じです。
「Jリーグの理事には、日本代表の監督をうんぬんする権限はないの」

私は、1991年11月にJリーグ(正式には社団法人日本プロサッカーリーグ)が
設立されたときからの理事ですが、日本代表チームを管轄しているのは
Jリーグの上部団体である財団法人日本サッカー協会なのです。

子会社の役員が親会社のプロジェクトについて意見する権限がないように、
Jリーグ理事が日本代表の監督について公式に意見を述べる機会はありません。
では、いったいJリーグ理事はどんな仕事をしているんだ、と言われそうなので、
今回はその具体的な内容についてご説明しましょう。

メインの仕事は毎月1回開催される理事会に出席することです。
私の仕事は「スポーツビジネスコンサルタント」ですから、
その道のプロとして意見がないということは、あり得ません。

私は理事を引受けて以来、理事会では必ず質問や意見を述べることを
自分のノルマとしてきました。
川淵さん(現日本サッカー協会会長)がJリーグのチェアマンとして
最後の理事会に出席されたときは、
「三ッ谷さんのお陰で、スポーツ団体には珍しく
活発な意見の出る理事会を運営できた」と誉めてくれました。

今月(4月)の理事会では、大きな審議事項が2つありました。
「ジェフユナイテッド市原チーム名・呼称変更の件」と
「サガン鳥栖に対する経営支援の件」です。

このうち大半の時間が費やされたのは、ジェフ呼称の件でした。
「ジェフ市原」から「ジェフ千葉」に変更したいというのがクラブ側の提案です。
マスコミの注目度も高く、市原市長からは前日「チームから何の相談もなく、
憤りを感じている」という電話をもらいました。

理事会ではジェフの岡社長が理事でもあることから、
これまでの経緯についての詳細な説明がありました。
「ジェフはこれまで3年をかけて準備してきた」とのことで、
市長の話とは食い違っていました。

Jリーグ理事会としては、両者がもう少し時間をかけて
話し合う必要があるのではないか、ということで、
ジェフの要望を了承するまでには至りませんでした。

これはJリーグの理念にもかかわる問題でもあり、
議論は1時間40分にもわたるものでした。
続いて株主の問題でもめている鳥栖の案件などについて審議し、
最後に私が2つの提案をしました。

「Jリーガーは社会からの注目度も高く、子供たちへの影響も大きいので、
話し方や立ち居振舞いも含めて、社会人として最低限のマナーを
身に付けるような研修をして欲しい」ということが1つ目。

2つ目は、引退した選手への精神面でのサポートの必要性についてです。
Jリーグは、選手を対象に引退後の就職相談にのったり、
就職先を紹介するキャリアサポート・センターを持っています。

Jリーガーに限ったことではありませんが、
所属クラブから「必要ない」といわれた場合、
選手は自分の全てを否定されたような失望感や、
将来への不安感などに襲われ、
一般の人間以上に精神的に厳しい状況に陥ります。

引退した選手がスムーズに、選手としてではなく
1人の人間としてアイデンティティーを確立し、
新たな人生に踏み出せるようにサポートすることも
Jリーグとして見過ごしてはいけない大切な仕事だと思うのです。

一時期でもJリーグに身を置いた若者に対して、
引退後は勝手に生きていけというのでは、
あまりにも無責任で寂しいものがあると言わざるを得ません。
そんな彼らへのメンタル面でのサポートもすべきだと、
意見を述べました。

Jリーグが設立されて12年余。
まだまだ日本は、プロサッカーを取り巻く環境が十分とはいえません。
私は最古参理事ですが、マンネリ化しないよう常に問題意識を持って、
サッカー界の向上に貢献したいと思っています。

問題を1つづつ解決していくという地道な努力の積み重ねが、
将来への大きな発展につながるのです。
Jリーグについて何かご提案、ご意見等がありましたら、
遠慮なく下記にメールをお送りください。お待ちしています。

mail@sports-21.com



宮里藍は前園に?

宮里藍は前園になってしまうのか
3月22日の日本経済新聞に、アイドルのような宮里藍の写真で埋め尽くされた
一面広告が載っていました。ご覧になりましたか?

襟元を大きくカットしたレモンイエローのシャツは
彼女のさわやかさと愛らしさを一層引き立てていました。
写真集の広告かと思って社名を探してみると、何と「スカパー」です。

写真と写真の小さなスペースに、こんなコピーが書かれていました。
「ありがとうございます。今日、スカパーは東証1部に上場します」
史上最年少、プロ最短優勝を果たした宮里の出現は、
女子プロゴルフへの注目度を一気に高めました。

実力はもちろんのこと、そのチャーミングなルックスが
大きな要因であることは、誰も否定しないでしょう。
しかし、この広告を見て、私は一抹の不安を感じました。

Jリーグが始まったころ、アイドルのように持てはやされ、
その後、実力が伸び悩んでJリーグに活躍の場を見出せなくなった
前園真聖をふと思い出したからです。

前途を期待された前園がなぜ、そんなことになってしまったのか。
たまたま今月の「スポーツ21・マーケティング研究会」のテーマは
スポーツマネジメントでした。

前園をマネジメントしていたのはサニーサイドアップという
中田英寿のマネジメントで有名になった会社です。
スポーツ選手のマネジメントは初めてだったこともあり、
前園をファッションショーに出演させたりしました。

この日の講師だったジャック坂崎さん(J・坂崎マーケティング社長)によれば、
「現役のスポーツ選手をファッションショーなんかに出すべきではない」といいます。
選手としていかに大成するかを最大目標にすべきで、
「ファッションショーに出したと聞いて、これじゃダメだと思った」そうです。

前園の苦い経験から、
「中田については慎重に対応しているようだ」というのが、
坂崎さんの見方でした。

ちょうど宮里の広告が掲載された日に、
あるパーティーでゴルフ評論家の川田太三さんに会いました。
「どうなんでしょう、宮里はこの先、大丈夫でしょうか」と質問してみました。

「日本の選手はジュニアでは世界でトップなんですよ。
でもその上の年齢になると伸びない。
日本の選手は少しでも活躍すると、
周りがチヤホヤして甘やかす。これがよくないんです」

川田さんのこの話を聞いて、一層、宮里の前途が心配になりました。
まだ18歳。ゴルフに専念できる環境をいかに作っていくかが、
周りの大人たちの大切な仕事です。

10年後の宮里藍はどうなっているでしょうか。
大きく成長していてくれることを願うばかりです。



極秘の情報

しばらく怠けていて、失礼しました。
先日、久しぶりに長い原稿を書きました。
400字詰めの原稿用紙でいうと15枚ほど。
かなり気合を入れて取り組まなければならない分量です。

媒体は財団法人地域活性化センターが発行している
「地域づくり」という月刊の機関誌です。
全国の地方公共団体の首長や活性化担当が読者だそうです。

今回の特集テーマは「スポーツとまちづくり」。
当社は2000年までの5年間、スポーツ施設のハードとソフトを
まちづくりの視点で考える「SPO-LEX研究会」を開催していました。
(詳細は「ファシリティー研究所」をご参照ください。)

ですからこのテーマは、私の専門分野の1つなのです。
3月号に掲載されますが、地域活性化センターのサイトにある
データベース「地域づくり百科」にも収録されるそうなので、
ご関心のある方はご覧ください。
http://www.chiiki-dukuri-hyakka.or.jp/book/monthly/index.htm

今回ここで取り上げたいのは、
原稿の執筆に当たって情報収集をした過程での、
ちょっとした出来事についてです。

スポーツをまちづくりに生かしている国内の事例として
鹿島アントラーズを取り上げました。
若者の流失に悩んでいた鹿島町(現鹿嶋市)が、
地元に工場を持つ住友金属工業などと共に、
アントラーズを作りまちの活性化に繋げました。

2001年、茨城県はアントラーズのホームスタジアムである
県立カシマサッカースタジアムの利活用について、
調査報告書を作成しました。

その報告書を読みたくて茨城県に問い合わせると、
意外な返事が戻ってきました。
「報告書は公開していない」というのです。

「何とか見せてもらえないでしょうか」と頼んでみたところ、
「読みたいなら県庁まで来て欲しい。
ただし報告書からの引用については、検討してから使用の可否を決める」
というのです。

呆れました。役所にとってマイナスの事故調査などではありません。
スタジアムをどう活用するかという調査です。
結局、他のルートで入手しましたが、内容は事例も豊富で幅広い提案も含め、
なかなか素晴らしい「報告書」でした。

それなりの予算を使ったはずの意欲的な報告書が、
なぜか役所の倉庫に人知れず埋もれている―。
もったいない話です。



この項のトップページに戻る