● 三ッ谷洋子のコラム 2005年




このページは2005年12月より
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2005年6月30日 川淵さんの夢の原点
2005年5月21日 ディナモ・キエフ
2005年4月15日 「2度目の人生」を支援する
2005年3月15日 ケネディ大統領とウオーキング
2005年2月15日 スポーツ博物館が伝えるもの
 
★ 2004年コラム
★ 2003年コラム


川淵さんの夢の原点

6月中旬、「Jリーグ役員ツアー」でコンフェデレーションズカップの応援と、
ブンデスリーガのクラブ視察にいってきました。

大会結果については皆さんご存知のように、日本代表はギリシャに勝ち、
ブラジルを同点にまで追い詰めて、確実に強くなっていることを証明してくれました。
仕事を放り出してでかけた意味もあろうというものです。

今回のツアーで、日本代表の応援に劣らず私が関心を持っていたのが、スポーツクラブ視察です。
訪問したのは「VfB シュトゥットガルト」と「ボルシア・メーヒェングラートバッハ」。
「シュトゥットガルト」はIBMヨーロッパの社長をしていたシュタウト氏を会長に迎え入れ、
経営基盤の強化に取り組んでいます。

「クラブはお金を生む"機械"でなければならない」というコメントが印象に残りました
同クラブ出身のブッフバルト(現浦和レッズ監督)が帰省中で、鈴木チェアマンほか、
J1、J2クラブの社長が訪れたということで、顔を見せてくれました。

もう1つの「ボルシア・メーヒェングラートバッハ」は、
1970年代にバイエルン・ミュンヘンと2強をなした栄光の歴史を持っています。
この6月から京セラが大口スポンサーになったとのことで、
スタジアム看板や選手のベンチなど、いたるところに京セラのロゴマークが貼り付いていました。

しかし今回、最も深く印象に残ったのは、ツアーから離れて列車で出かけたデュイスブルクです。
10年以上も前、当社主催のマーケティング研究会「第88回例会」で、
講師をお願いした川淵三郎チェアマン(当時)の話に出てきた地名です。

1960年。川淵さんは現役の選手で、4年後の東京五輪に向けて日本代表として
デュイスブルクの"スポーツシューレ"で合宿をしました。
「そこは天然芝のグラウンドが何面もあって、トップ選手だけでなく、
近所のお年寄りと子供が楽しそうにサッカーをしていました」

"スポーツシューレ"とは、ドイツ語では「シュポルトシューレ」。
「シューレ」は「スクール」の意味ですが、「シュポルトシューレ」はスポーツ指導者の研修センターで、
宿泊施設もありトップチームの合宿施設としても使われています。

当時の日本は、トップ選手の練習場でさえ小石がころがっている土のグラウンド。
それが西ドイツでは、一般の人たちも芝のグラウンドで楽しそうに遊んでいる・・・。
川淵さんは日記に「ここで約1週間練習するのかと思うと、興奮してなかなか眠れなかった」と
記したそうです。

そんな夢のような環境を実現する機会が訪れました。Jリーグの創設です。
各地のクラブの施設には、芝生のグラウンドで老若男女がスポーツを楽しんでいる・・・。
Jリーグを通して日本に実現しようとした川淵さんの「夢」の原点が、
このデュイスブルクなのです。

Jリーグの創設から理事としてかかわってきた私としても、
かねてから川淵さんの夢の原点を自分の目で確かめたいと思っていました。

デュイスブルクの駅からタクシーで10分ほど。
「スポーツシューレ」の建物の中に入って「中を見せていただけますか」と事務所の女性に声をかけると
「10人のグループなら、施設を案内しますよ」とのこと。
残念ながら私は、あるJクラブの社長と2人だけだったので、案内なしに見学だけさせてもらいました。

事務所棟から施設内に入ると、目の前にはサッカー6面、ホッケー1面の芝のグラウンド。
土の練習場しかなかった45年前の川淵さんの感動をなぞるように想像しながら、ゆっくりと見て回りました。

Jリーグ開幕前。日本には芝の練習場はありませんでした。
現在では各クラブのほか、2002年のワールドカップの際に外国チームの合宿招致をした自治体、
サッカー合宿を目玉にしているホテルや旅館などをあわせると、芝のサッカーグラウンドは
少なくとも100以上はあるのではないでしょうか。(申し訳ないのですが、調べきれていません。)

45年前、たった1人の人間が抱いた「夢」が実現して、社会が大きく変わる。
それを、改めて実感した訪問でした。

私たちがデュイスグルクを訪れた翌日、川淵さんがここを再訪したと共同通信は伝えています。
ご無沙汰している川淵さんに「私も行ってきました」と、久しぶりに手紙を書いてみようと思います。



ディナモ・キエフ

「ディナモ ナチスに消されたフットボーラー」(アンディー・ドゥーガン著)というタイトルの
ノンフィクション小説が昨年、出版されました。
最近、いくつかの新聞や雑誌の書評欄で取り上げられています。

話の舞台は旧ソ連・ウクライナの首都キエフ。
私はまだ読んでいないのですが、紹介記事によるとこんな内容です。

1942年にキエフを占領していたナチス・ドイツ軍が、
「ディナモ・キエフ」のサッカーチームと試合をすることになりました。
結果は1-5でディナモ・キエフの勝ち。
これではサッカー先進国であり、占領軍であるドイツの面子が立ちません。
ドイツは再試合を申し入れます。

他のドイツ軍宿営地から選手を補強し、レフェリーも味方につけ、
圧倒的に有利な条件を整えました。しかし、またも3-5で敗れてしまいます。
そして、勝利したディナモの選手たちはドイツ軍に逮捕され、
強制収容所送りになってしいます。

勝ったチームの選手が、負けた国に逮捕されるなどということが起こるのも、
戦争という異常事態だからでしょう。

このあらすじを読んで、ソ連という国がまだ健在だったころのことを思い出しました。
もう27年も前のことです。1980年の「モスクワオリンピック」を控え、
開催準備に取り組んでいるソ連の取材に出かけました。

当時のソ連は、米国と並ぶスポーツ大国。
オリンピックのたびに大量のメダルをさらい、
国際試合では日本の前にはソ連が立ちはだかっていました。

ソ連はなぜ、そんなに強いのか。
「選手たちが、国家に生活を保障されたステートアマだから」というのが
当時の新聞記事に見られる一般的な分析でした。
では、企業に生活を保障されている日本の選手は、恵まれていないのでしょうか。

ソ連のステートアマの実態を知りたいという、素朴な好奇心もありました。
訪れてみて分かったことの1つは、スポーツが他の文化や芸術活動と同列の位置付けにあり、
プロパガンダの役割を担っているということでした。

だからこそ国際舞台で活躍した選手は、社会主義国の優位性を世界にアピールしたとして
高く評価されたのです。

12月中旬。初めてのソ連は凍りつき、カメラを持つ手が寒さで固まりました。
10日ほどの取材日程は全てソ連のノーボスチ通信社が準備したもので、
私はモスクワからレニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)を経由して、
キエフに着きました。

オリンピックがらみの取材といっても、大会は2年後なので施設はまだ建設の途中。
ソ連のスポーツは、エリート選手の世界だけでなく、
社会主義を推進する労働者のスポーツクラブも充実していました。
その代表的なクラブの1つとして訪れたのが「ディナモ・キエフ」でした。

クラブハウスの周りには、サッカー場やテニスコートが並んでいたように記憶しています。
施設を見学したあと、出口付近にある1つの石碑が目に入りました。
3~4人のサッカー選手がボールを蹴っている姿が、レリーフになっています。
「これは何の記念碑ですか」。同行のロシア人記者は私の質問に対して、
1つのエピソードを話してくれました。
それが、まさに文頭で紹介した本の内容と同じものでした。

ただ1つだけ違いがあります。
「勝ったディナモの選手たちは全員、殺されてしまったのです」
返す言葉がみつかりませんでした。

「しかし、その結末は旧ソ連のプロパガンダ。本当は何人かが生き残っていた」
この事実が今回、新たにノンフィクション小説で明らかにされているそうです。
「真実とは何か」。しばらく忘れていた言葉が、私の中によみがえりました。



「2度目の人生」を支援する

年度が改まり、新たな環境で生活を始めた方もいらっしゃることでしょう。
スポーツ選手にとって、現役引退は人生最大の転機です。
それまでかかわっていたスポーツの世界で、
指導者などとして残れる人は限られています。

運良く残れたとしても、一般の会社に就職するのとは異なり、
単年度契約が多く、長期的な生活を安定させることは
なかなか難しいのが現状です。

「広岡だって大変なんだよ」。20年ほど前のこと、
ある会社の副社長がこう話していました。
広岡とは現プロ野球解説者、広岡達朗さんのことです。

ヤクルトの監督を辞めて、テレビの解説をされていた頃です。
「テレビ解説の仕事だって、将来を保障されているわけではないんだから。
三ッ谷さんの会社で、辞めた選手や監督のマネジメントをしてみたら?
仕事になるはずだよ」

その副社長は、広岡さんの親戚に当たる人です。
紹介をもらって連絡をとりましたが、結局、
こちらの対応が物足りないと思われたのか
仕事として具体化することはできませんでした。

最近では、サッカーの中田英寿選手などを抱える
サニーサイドアップのようなマネジメント会社が出てきて、
本格的なマネジメント業が成立しているようですが、
そんな会社と契約できる選手は、実際にはごく少数です。

ほとんどの選手は自分で第2の人生を切り開かねばなりません。
選手寿命の短いサッカーでは、将来そんな環境に直面する選手のために、
Jリーグが現役選手を対象にした「インターンシップ」(職場体験)を、
毎年、実施しています。

Jリーグキャリアサポートセンターが窓口となり、
受入れ企業と選手の間を取り持っています。
1年目の2002年には応募選手はゼロでしたが、
今年は13人が普段のユニフォームを脱いで、職場体験をしました。

「サッカースクールの指導」「プロダクションマネジャー」
「フレンチレストランのサービス・キッチン業務」などのほか、
「農業」を体験した選手もいました。

水戸ホーリーホックの小椋祥平選手(19歳)です。
「パプリカの収穫・出荷作業」「サツマイモの加工・干しイモ作業」で
3日間を過ごしました。

高校の時から農業に興味があり、若いうちからいろいろな経験を
したかったそうです。「オフの貴重な時間を使うけれど
無駄にならないし、いい経験ができた」と語っています。

「そんな時間があったら、ボールでも蹴ってろ」と
昔風の指導者なら叱っていたかもしれません。
しかし、現役選手として、さらにはいつか引退する選手として
こうした経験は大きな財産になるはずです。

Jリーグのこの取り組みは、広く他の日本のスポーツでも
真似してほしい事業だと思っています。



ケネディ大統領とウオーキング

「何かスポーツをされていますか」と、よく聞かれます。
「いえ、口だけです」。つまり日常的にはスポーツを語るばかりで、
実践とは程遠い毎日を過ごしているのです。

そんな私ですが、年に数回、友人に誘われて15キロとか20キロの
ウオーキングに出かけています。
秋は、東松山市で開催されるスリーデーマーチに「ただ乗り」し、
登録参加者のような顔をして沿道に設けられたサービステントで、
梨やお汁粉に舌鼓を打ちながら、仲間と楽しく歩いています。

この大会を主催している社団法人日本ウオーキング協会が昨年、
満40年を迎えました。以前は「日本歩け歩け協会」という名称でした。
3月に開催した小社の「マーケティング研究会:実戦ゼミ」で、
同協会専務理事の木谷道宣さんに、活動の歴史をうかがいました。

ここで詳しい内容をご紹介するスペースはないのですが、
1つだけ印象に残ったことをお伝えします。
団体設立のキッカケとなったエピソードです。

1963年のこと。早稲田大学の学生5人が米国大陸6千キロを
徒歩で横断しました。小田実の「何でも見てやろう」という本が出て、
若者たちが著者のように、少ない資金で海外旅行をすることに憧れた時代でした。

彼らは司法長官だったロバート・ケネディに面会し、
兄のジョン・F.ケネディ大統領が、国民の体力増進のために
「50マイル運動」を提唱していたことを知りました。

ケネディ大統領はその3年前に、米国のスポーツ・イラストレイテッド誌に
"Soft Amerian"(軟弱なアメリカ人)という論評を発表していました。
その背景には1957年の"スプートニク・ショック"があります。

ソ連が人類史上初の人工衛星スプートニク打ち上げに成功したことで
先を越された米国では、それまでの自国の教育を見直す動きが出てきました。
宇宙開発競争でソ連に敗れた原因は、「中学や高校の科学や数学の教育が不備であり
体育やスポーツのような活動は、大幅に削減すべきだ」という主張です。

カリフォルニア州では、小学校から大学2年生まで必修となっていた体育を
全面的に縮小させる方向にありました。
その動きにストップをかけたのが、ケネディ大統領のこの論評でした。
米国の若者の体力低下を何とかして食い止めなければという意図がありました。

学生たちがそんなケネディ大統領の話を聞いて帰国した翌年の1964年、
10月に東京でオリンピックが開催されました。
大会開催中の10月17日、早稲田の学生の呼びかけに応じて
200人が神宮外苑の絵画館前に集まり、都心を歩きました。

その後、毎日曜日に「歩く会」が行なわれ、
14年後の1978年には、第1回のスリーデーマーチがスタートしました。
参加者1800人。2002年の第25回大会では、第1回の60倍にもなる
11万の人々が、ウオーキングを楽しみました。

ケネディ大統領の先見性と学生たちの行動力が、
現在の日本のウオーキング隆盛につながったのです。



スポーツ博物館が伝えるもの

昨年、アテネオリンピックの視察の際に、滞在していたギリシャのテッサロニキで、
「スポーツ博物館」を見学しました。

「スポーツ博物館」は、私が興味を持っているテーマの1つです。
海外で初めてスポーツ博物館を見学したのは、1978年のことです。
モスクワオリンピックの2年前のことで、
「社会主義で行なわれる初めてのオリンピック」の準備状況を取材した時に、
モスクワのルージニキー・スタジアムでたまたま見つけました。

大時代的な展示スタイルは、国際舞台で活躍したスポーツマンを
国家をあげて称えているという印象でした。
社会主義国・ソ連にとって、スポーツは強力なプロパガンダの1つであり、
スポーツ博物館は市民にそれを強くアピールする場でした。

モスクワオリンピックの次のロサンゼルスオリンピックでは
「アフロアメリカン・ミュージアム」に足を運び、
「白人文化でないもう1つのアメリカ」の存在を強く感じました。

黒人文化を伝えるミュージアムのテーマは、
開会中のオリンピックに連動させた「スポーツ」でした。

オリンピックの歴史コーナーには、ベルリン大会(1936年)の陸上競技で
4つの金メダルを獲得して英雄となったジェシー・オーエンス、
ローマ大会(1960年)のボクシング・ライトヘビー級で優勝し、
後にプロとして活躍したカシアス・クレイことモハメッド・アリ。
米国のスポーツを牽引してきた黒人選手たちがキラ星のように並ぶ様子は、壮観でした。

さて、オリンピック発祥の地ギリシャのテッサロニキ・スポーツ博物館はどうでしょうか。
大会直前にオープンしたばかり。ワクワクしながら入口をくぐりました。
市民にはまだあまり知られていないようで、入館者はまばらでした。

天井が高く明るい部屋には、ギリシャ・サッカーリーグの各クラブのウエアが
カラフルに並んでいます。そして、ひときわ目立つ位置に、
オリンピック直前に終わったヨーロッパ選手権の優勝杯と
ギリシャ代表チームのウエアが誇らしげに飾られていました。

その他の展示は、ナショナルチームの歴史を写真などで紹介したもの。
それほど古いものはありませんでした。。
ギリシャといえば、古代オリンピックという人類の遺産を持つ国。
無意識に「壷に描かれた選手の像」などを期待していたのですが、
展示物はここ1世紀以内のものばかりでした。

でも、よく考えてみると当たり前なのです。
サッカーというスポーツは、古代オリンピックでは行なわれていませんでした。
中世のヨーロッパでは、村ぐるみでボールを奪い合うスポーツがありましたが、
今のようなサッカーは19世紀半ばに生まれたのです。

肩透かしを食ったような気分で出口に向かうと、
チケット売り場の若いスタッフが、「サッカー展」のポスターをくれました。
歴史の重みをあまり感じられなかったせいか、
折角くれたポスターにも興味が湧かず、今は本棚の上でホコリをかぶっています。





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